大学生の頃の出来事になる。
私は、東京の大学に通っていて、ドライブ好きの先輩から唐突に告げられた言葉が今でも鮮明に残っている。
ノリと勢いだけの会話ではあったが、この一言が私の人生を変えることになる。とりあえず滾るからという理由だけで、ビーナスラインを勧めてきた先輩も含めて、長野県にあるビーナスラインへ行くことを計画した。
当時からスポーツカーに憧れていた私は、勢いで86(ハチロク)をレンタルして向かうことにした。マニュアル免許は持っていたものの、普段マニュアル車に乗る機会がなかったため、発進時にクラッチの繋げ方が悪く、半クラッチで4000回転まで吹かしながらノロノロと発進する有様。エンジン音と車のスピードが全く一致せず、変な汗をかきながらも何とか車を前に進めることができた。当時は大学生で使えるお金も限られていたため、その限られたお金を効率的に使う方法を考えた。その結果、高速の深夜割引を利用するため、深夜に東京を出発することにした。

滾る心と駆ける、ビーナスライン
深夜に出発し、サービスエリアで仮眠を取りながらも、地道にビーナスラインへ向けて移動していた。疲労と闘いながらのドライブだったが、目的地への期待が私を前に進ませていた。
いよいよビーナスラインに差し掛かると、広がる絶景に息を呑んだ。この爽快感は、珈琲を飲んでも誤魔化せなかった眠気を、一瞬で吹き飛ばした。視線の先には、有限という概念を忘れるほど、遥か遠くまで広がる自然が息づいている。人々がひしめく都会の、成功と挫折が入り混じった喧騒とは無縁の解放感がここにはある。そして、道はリズミカルに続いていく。一度加速したかと思えば、緩やかに減速しカーブを滑るように曲がる。この変化に富んだリズムを、柔らかい遠心力によって身体で感じることができる。美しい景色を眺めながら、このリズムを自分で操ることが、先輩の言っていた「滾る」という感覚なのだと思った。
先輩と一緒に初めて訪れたビーナスラインの感動は忘れられず、社会人になって車を手に入れてからは、気が向くと一人でも訪れるようになった。
ビーナスラインに取り憑かれた先にあった、さらなる絶景

葉の青さが残る初秋の頃。夕方、仕事を終えた私は、翌日は休みだからどこかへ行こうと思い立ち、ビーナスラインへ向かうことにした。高速道路で3時間ほどかけてビーナスラインに到着した。
車のドアを開けると、都会では決して見ることのできない満天の星が頭上に広がっていた。展望台へ向かうと、眼下には街の灯りが輝き、雲が優しく街を包み込む。
外の空気は、鼻の奥に残る夏の気配をすっかり消し去るほど冷たかった。外気温計を見るとマイナス5度を示していた。しかし、その寒さすら忘れるほどの感動があった。この素晴らしい星空を眺めながら、「このまま朝を迎えたら、もっと素晴らしい光景が待っているのではないか」という期待が芽生えてきた。その期待を胸に、車中泊することを決めて、日が昇るまで待つことにした。

5時ごろ、目覚ましのアラームで、まだ日が昇らないうちに目を覚ました。外に出て空を見上げると、夜明け前のほんのりと明るい空の中で星々が静かに輝いていた。寝起きのせいで、若干足元がふらついていたが、展望台に向かって歩き始めた。まだ空気は冷たく、山肌を撫でるように吹くひんやりとした風を、私の身体がそれを受け止めていく。
展望台に着くと、前日の夜に見えたはずの街並みがすっぽりと雲に包まれていた。山の稜線だけが雲海の上に浮かび上がり、街そのものが生まれ変わってしまったようだった。それでも、流れゆく雲の合間から時折光が差し込み、まるで人々の息遣いのように見えた。
朝日が徐々に差し始め、雲海が淡いピンク色に染まっていく。視界いっぱいに広がる雲海を前に、日常の喧騒から離れた静寂の中で、ただただ自然が織りなす美しさに見惚れていた。ふらついていた足が、しっかりと大地を踏みしめる感覚を、少しずつ感じ始めていた。
それにしても、雲海が見える条件は非常に厳しいと聞いていた。前日の日中と翌朝の気温差が10度以上あり、さらに十分な晴天と高い湿度が必要となる。これらの条件が揃うのは、一年のうちにほんの数日だけだろう。思いつきで訪れ、この美しい雲海を目にできたのは、本当に幸運だったと思う。

雲海を眺め終えた僕は、近くにある「ころぼっくるひゅって」というお店に立ち寄った。温かみのあるログハウスの中で、雄大な自然の景色を楽しみながら、体の芯まで温まるボルシチとサイフォンで淹れたコーヒーを味わった。早朝に雲海を眺めているときは気づかなかったが、席につくとあの光景を思い返し、わずかに身体が冷えているのを感じた。その冷えた体にボルシチの温かさがじんわりと染み渡っていった。
ふと窓の外に目をやると、ブンブンと羽音を立てた蜂が店内の様子をうかがっているようだった。その蜂に気づいた店主は、目の前に飛んできた蜂に向かって勢いよく腕を振り下ろした。その瞬間、店内に「パチン」という鋭い音が響いた。何が起こったのかわからなかったが、なんと店主は素手で蜂を成敗していた。自然の中で生きるということは、こうした度胸も必要なのかもしれない。
蜂に気を取られていたため、これまで見落としていたが、やたらと『ゆるキャン△』の写真が飾られていることに初めて気づいた。ここは「聖地」としても話題になっているようだ。『ゆるキャン△』のメインキャラクターである「志摩リン」は、物静かでソロキャンプを好む女の子だ。そんな彼女がソロキャンプ中に、無邪気で活発な「各務原なでしこ」と出会ったことをきっかけに、さまざまな人々と関わり、キャンプを通じて友情を育んでいく物語である。もし彼女たちが、店主が素手で蜂を成敗する姿を見たら、どんな反応をするのだろうか。そんな妄想も膨らんでしまう。

季節や訪れる時間帯によってさまざまな表情を見せるビーナスラインに、僕はすっかり魅了されていた。帰り道に、「オープンカーでビーナスラインを走ったら、今まで以上に最高のドライブになるのではないか」とふと想像してみた。そして、その妄想はただの空想ではなく、1年後に確かな現実となって現れた。ついに、僕はオープンカーを手に入れてしまった。
オープンカーが与えてくれた、これまでにないドライブ体験

オープンカーを手に入れて、初めてオープンで走った時は忘れもしない。完全に私のドライブにおける価値観を一変させた。納車した直後、ニヤニヤが止まらずに運転していたことを今でも覚えている。頭上を流れる風、直接感じる自然の温度、そして周囲の音、全てが生々しく感じられる。普段見慣れた景色も変わって見えた。頭上には、こんなにも景色が広がっていたとは、考えてもいなかった。

そして、マニュアル車を選んで正解だと思った。駐車する時に油断して、クラッチを一気に繋げてしまってエンストしてしまう、なんてこともあったが、運転し始めて1時間後くらいには、思いのまま操作できるようになった。マニュアルで焦る感覚よりも、エンジンの回転数を上げてから、シフトアップすると、室内にエンジン音が広がり、僕はこんなにも大きい車を操っているんだ、という感覚を味わいながら運転していた。今では、クラッチを離してエンジンの回転数を上げながら、ギアを下げ、クラッチを繋げるのが楽しくてしょうがない。
そして、納車して1週間で、ずっとやりたかったオープンカーでビーナスラインを走ることにした。
オープンカーで大自然を駆け抜ける贅沢なひととき
ビーナスラインをオープンカーで走ることは、単なる車を走らせるという行為を超越した体験だった。頭上に流れる心地よい風、肌で感じる季節の空気。なにより、大自然を駆け抜ける白馬に乗っているような解放感。普通の車なら見逃してしまう細やかな風景や空気、匂いの変化も、オープンカーだからこそ全身で感じ取れる。緑豊かな山々を背景に走るワインディングロードでは、車体が軽やかにカーブを描くたび、エンジン音と自然の音が絶妙なハーモニーを奏でていた。「こんなにも贅沢なことを、僕みたいな年齢で経験していいのか」と戸惑うくらいだった。
日常の喧騒を忘れ、今この瞬間を生きている、自分自身に秘めた生命力を感じることができた。
オープンカーにも広がる、ヤエー文化

オープンカーでビーナスラインを走っていて初めて気づいたのが「ヤエー」という不思議な文化だ。「ヤエー」とは、元々バイカーが対向車線で出会った際に交わすハンドサインのこと。これがオープンカー同士でも交わされるということを、私は走行中に突然知ることになった。しかも、オープンカーだけではなく、バイカーの方々もヤエーを交わしてくれた。「なんで知らない人が手を振ってくるの?」と、最初は戸惑いと恥ずかしさもあったが、次第にその楽しさに目覚めていった。
見知らぬ人と一瞬だけ心が通じ合う不思議な感覚。自分が有名人になったような気分も感じた。数えきれないほどのオープンカーやバイカーと「ヤエー」を交わし、夕方には筋肉痛なのか、腕に若干の違和感があった。美しい絶景よりも「カーブの先から、オープンカーかバイクが来るかな?」と気になるようになり、ドライブの楽しみ方を、完全に変えられてしまった。
オープンカーは、移動を超えた体験をもたらす最高の相棒
日常から解放され、見知らぬ人と「ヤエー」を交わす。忙しい日常を忘れさせてくれる、至福のひとときだ。中世の貴族ですら、ティータイムを超えるこの体験は味わえなかっただろう。ビーナスラインは、ただのドライブコースではない。自然との一体感、車から身体に伝わる感覚、そして見知らぬ人との一瞬の交流。日常では決して味わえない、非日常が広がっているのだ。そして、オープンカーに乗れば、行き慣れた道もまるで別世界になる。いつも見ていたはずの景色が、新たな表情を見せる。視点を変えるだけで、見えてくる世界が一変する。それを、僕のオープンカーが教えてくれた気がする。
とりあえず、オープンカーがなくても、まずは車でビーナスラインへ行ってみてほしい。滾るぞ。

